こうだったからこそこんにちは。代表の竹内です。

九月九日は菊の節句、菊酒をお飲みになりましたか。

菊の生命力にあやかった風習とのことですが、平安時代から続いていると聞くと、千年以上昔の人と一緒の時を楽しんで、うまいねと言ってお互いニッコリしているような親近感を持てます。

 

名所旧跡やグルメもいいですが、コロナ後の日本の観光資源は、このような風習、習俗にしてはいかがでしょうか。

より国民性を理解してもらいやすくなると思いますし、ほとんどの諸外国の方にとっては、自分の国の建国より前からある風習を魅力に思ってくれるのではと期待します。

 

 

これらの風習は「見立て」とも言えますが、日本全国に〇〇富士という山があるように、形が似ているというだけでなく、本物の富士山と同じと「見立てて」信仰の対象にするというところが独特です。

 

能では、体を一回りさせると百年位経過することもありますし、「・・・と言うことにする」のは、意識の持って行き方ひとつで、さっと変えられるダイナミックさを感じます。

 

日常の生活でも、居酒屋さんに行くと大広間でお隣の席との間に衝立一つ立てただけで、「個室と言うことにする」了解がお互い得られて、話し声が気にならなくなります(実際は聞こえているのですが、スイッチがオフになり無関心になれます)。

 

 

私はチャップリンが大好きなのですが、掃除道の鍵山秀三郎さんのご著書によると、チャップリンは自分の人生をたった三つの言葉で表わしたそうです。

 

こうだったから、こうなった

こうだったのに、こうなれた

こうだったからこそ、こうなれた

 

私は何かに直面したとき、物事の受け止め方を自問する物差しにしています。

使用人は全て日本人にするくらい日本びいきだったチャップリンも、お陰様思考や見立てが特徴の日本の古典芸能に、意識一つの大事さを感じたのかもしれません。

 

コロナを何に見立てるか、国も、個人も試される時。強権発動なしに個人の意思に委ねられて爆発一歩手前で踏みとどまった個々の人々に、大いなる期待を持って一緒に進んで参ります。