残暑お見舞い申し上げます。
代表の竹内です。
連日の猛暑ですが、何とかやり過ごしてお元気でいらっしゃいますことを願っております。
先日、外出中に久―ラ―で涼をとろうと本屋さんに入りましたら、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という何とも涼しげな背表紙が目に飛び込んできました。
賢治の生家は質屋さんで、私の生家も質屋で名前もケンジなものですから、小さい頃から勝手に親しみをもっていました。
前の日に、宮沢賢治の弟さん(この方が兄の作品を戦火から守って、ものすごい努力で作品として世に出した方だそうです。)のお孫さんである宮澤和樹さんの「宮澤賢治の銀河世界」という対談録をちょうど読んだばかりでしたので、すぐ目に飛び込んできたのかもしれません。
対談録を読んで「雨ニモマケズ」の詩をを改めて味わう事ができました。
この詩は、人のために何かをするとか、困難をものともせず努力する、という教訓的な文脈で語られることが多いのですが、和樹さんによりますと、祖父(賢治の弟)から聞いた話として、この詩の重要なところは「行ッテ」という部分だと言うのです。
(略)
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
(略)宮沢賢治「雨ニモマケズ」より引用
この句の部分に、「行ッテ」という言葉が刻んであります。
「行って」実践することが大切だと賢治は考えていたところが大事な点であると。
◇ ◇ ◇
ちなみに、私は「西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」のところで、いつも涙腺が緩んでしまうのですが、稲束を背負ってあげたから母が喜んでいるのではなく、会いに「行ッテ」ただそれだけで母は喜び、賢治も温かい母の心につつまれて嬉しいのだと気付きます。
この詩は賢治が亡くなる2年前の昭和6年の作と言われています。
そのころの賢治は肺病が進み、行きたくても思うように動けない悲しみも感じられます。
「行ッテ」その結果何もしてあげることが出来なくても、寄り添って「イツモシヅカニワラッテヰル」ことは出来る、それが賢治の幸せでもあったのかもしれません。
亡くなるその日まで、作物の肥料の相談に来た農民がいて、布団から起き上がって助言をしていたそうです。
亡くなる寸前まで誰かに必要とされて、賢治の喜びが目に浮かぶようです。
そういえばホスピスに入院して静かに最後の日を待っている女性が、最後までお化粧を欠かさず安らかに息を引き取られたお話を、メイクセラピストで看護師でもある大平智祉緒(ちしお)さんから聞いたことがあります。
お化粧をしてお見舞いに来た人を明るくする、まさに賢治の「行ッテ」のこころそのもののお話だと、改めて感銘を受けました。
いま此処に生きていらっしゃる方は、最後の最後まで、会った人を明るくするというだけだとしても、何か役に立てることがあるのだと気づかされます。
電車の中で、お年寄りが乗ってきたとき考えずにスッと立てる人、嬉しいこと悲しいことを聞いた時、考えずに行動できる人、このような方は小さな覚者でありましょう。
目立って恥ずかしいとか、断られたらプライドが傷つくとか、頭でその先を考えてしまうと動けません。
心がいま此処になく前のめりになっているからでしょう。
凡夫である私も、考えずに「行ッテ」の実践が出来る、そういう人になりたいと思います。
竹内 健二
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